平戸港

平戸港(市街/史跡)   

 まず、頼りになるのが、観光案内所です。平戸港北東側湾奥に「平戸港交流広場」がありますが、その入り口横にある小さな建物が、その案内所です。そこでは、担当者の方からの丁寧な説明や、「お役立ち確実」の案内リーフレットがいただけるのです。さらに、電動自転車の貸し出しも行っていて(有料)、それで、坂道も楽チンです。

 その「平戸港交流広場」から、良〜っく見えるのが、下写真の平戸城です。平戸港真近の丘陵に建てられていて、よく見えます。平戸城は、単独のページでも紹介していますので、ここでは、この写真だけにしておきます。

港の向こう側に平戸城

 やはり、平戸といえば、日本近世史に於いて、ヨーロッパ貿易船の渡来、そして、オランダやイギリスの商館設置にまで到る、海外との貿易や交流の拠点となっていたことが、知られていると思います。大雑把な年表は、以下の通りです。

  • 1543 年 ポルトガル船が種子島に来航、鉄砲が、伝来する。
  • 1550 年 ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港。
  • 1550 年 フランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、キリスト教(カトリック)を布教する。
  • 1582 年 本能寺の変。織田信長から、豊臣秀吉の時代へ。
  • 1584 年 スペインの貿易船が、平戸に入港。
  • 1600 年 関ヶ原の戦い。徳川家康、覇権を掌握。徳川の時代へ。
  • 1609 年 オランダが、商館を平戸に設置。
  • 1612 年 幕府により、キリシタン禁止令が出される。
  • 1613 年 イギリスが、商館を平戸に設置。(1623年閉鎖)
  • 1616 年 幕府、明(中国)以外の船の入港を、平戸と長崎に限定。
  • 1633 年 第1次鎖国令。幕府許可船以外の渡航と、海外5年以上居留者の帰国とを禁止した。
  • 1636 年 第4次鎖国令。ポルトガル人とその妻子(日本人妻とその子)287人をマカオへ追放。
  • 1637 年 島原の乱(〜1638年)。
  • 1639 年 第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。
  • 1639 年 オランダ・イギリス人関連の婦女子、ジャカルタへ追放。
  • 1641 年 オランダ商館が、長崎の出島へ移転、平戸での南蛮貿易が終焉を迎える。

 約百年の歴史ですが、その史跡や記念碑、あるいは、継承されてきた文化が、平戸港周辺にはたくさんあります。とりあえず、写真撮影した所を、紹介していきます。

ポルトガル船入港碑(平戸港交流広場の一角にあります)

 1500年代は、ヨーロッパ-インド/アメリカ大陸航路が開拓され、世界は「大航海時代」に入りました。先駆けのスペイン・ポルトガルが殖民活動を活発に行い、インド/アメリカ大陸の富を独占するようになりました。

 そのスペイン・ポルトガルの殖民活動と結びついて、ジェスイット教団(イエズス会、ヤソ会:キリスト教カトリック)は、厳格な組織をもち、世界で活発に伝道を行いました。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも、この教団の一員でした。

聖フランシスコ・ザビエル記念教会

 150mくらい徒歩専用の坂道を登ったところにある大きな教会です。その坂道の途中に、「コルネリアの塔」のある瑞雲寺と「寺院と教会が見える風景」ポイントがあります。教会の近くに駐車場があるので、車でも行けて、その坂道を徒歩で下るという選択もあるでしょう。

コルネリアの塔(瑞雲寺正門から入ると、すぐ見つかる)

 オランダ商館長ナイエンローデと日本人妻の娘、コルネリアの意向で建てられたとされる供養塔です。ジャカルタで生活していたコルネリアが、亡父の供養のために、平戸の親類にあてて、献灯を依頼したものと伝えられています。

 コルネリアは、1630年に平戸で生まれて8歳ころまで暮らしますが、父の意向(教育のため)で姉と共にバタヴィア(現インドネシアの首都ジャカルタのコタ地区/当時この港町には、日本人が貿易商や傭兵として、100人程住んでいました。)に送られます。しかし、1939年島原の乱の後、「鎖国令」が強化され、オランダ・イギリス人と関係のある婦女子は、バタヴィアに追放され、帰国も終生許されませんでした。

 やはり、幼きときに日本を離れたコルネリアも、再び日本の土を踏むことはできませんでした。彼女の一生は、また今度の機会ということで・・・・。

寺院と教会が見える風景

 瑞雲寺正門から、坂道をほんの少し登ると、もうそこが「寺院と教会が見える風景」のポイントです。教会の塔が見えますが、聖フランシスコ・ザビエル記念教会のものです。

 

 その二に続く・・・・(予定)。